過去を振り返るともう半生以上は楽器に触れている事に気付きました。初めてステージに立ってからは15年。売れる売れない抜きにして、楽しんでんなーと思いましたね。
ちょっと俺の過去のバンド達を触れてみましょうかね。
俺はベースプレイヤーとして今活動していますが、元々はギターを弾いていたんですよ。高校の時に初心者セットを買って、大学受験終わってから本格的に練習していました。当時はHi-STANDARDやgoing steadyのスコア(TAB譜と呼ばれる物)を見て弾いてました。
群馬の大学に入ってからは学園祭でバンドを組んで、リードギターをやりました、が、選曲がBUMP OF CHICKENや藍坊主、RADWIMPSでして、俺が普段聴かないジャンルだったので苦戦したなあ…
でも初めてのステージに上がってライブした時の興奮は今でも忘れられませんね。テンション上がりまくってんのにフレーズはミスっちゃいけないみたいなドキドキ感と、人が見てくれてるという興奮がヤバかった。当時からピョンピョンジャンプしてたので今と何も変わっちゃいねえ。そのバンドは一回きりで終わったけど、「バンドやりたい」という気持ちは抜けませんでした。
俺は大学4年間バイトを掛け持ちでいくつもやっていたのですが、その中でコンビニもやってまして、そこの副店長をドラムに誘って、大学の友達にベースをやらせてバンド「MADelie」というバンドを始めました。ボーカルがいなかったので俺がやる事になり、最初はHi-STANDARDやB-DASHのコピーをやりました。それと同時に高崎のライブハウスにも何回か行くようになり、オリジナルやってみてー!という気持ちが芽生え、1人でシコシコと作り始めたのは21歳の頃。
そして同年、群馬の太田で初ライブをしたのです。
当時全くライブハウスのシステムに無知で、ノルマも知らないし取り置きチケットのシステムも分からず、とりあえず待ち時間30分なら俺らパンクだから10曲できるっしょ!とか言ってセットリストだけ決めて、友達呼んで、終わったらすぐ帰って、、今思い出すと恥ずかしいものです。。
その日の対バンはメチャメチャ変わってて、ボーカルがドラムセットに突っ込むバンドや当時じゃ珍しい変拍子のバンド。俺の価値観は揺さぶられまくって、ライブハウスにいる自分が特別な存在だと勘違いしたのです。
肝心の自分達のライブはもう楽しくて楽しくてしょうがない、少年みたいでした。ただ、学園祭とは別で、自分達が試されているような雰囲気を感じました。楽しいけど俺らは通用してるのか??みんなどう思う??俺の作ったオリジナル曲はどう??そんな雑念すらもライブなのかもしれない。とかそんな想いがぐちゃぐちゃになって結局30分で10曲やりました。
その後、スタジオ練習はやるもののライブはせずに大学は卒業。俺だけ千葉県に就職となり、ライブハウスから離れる生活を送ります。でも俺のギター熱は冷めず。フェンダーUSAのジャガーを30万円で購入し1人で弾き続けました。どうしてもライブした感覚が忘れられず、でもバンドは動かず、新しく活動もどうしていいか分からず。悶々とした日々が続き、色々あって(メチャメチャ割愛)佐倉のライブハウスで働き始めます。そこでQLTONEや月がさ、カグライフ、ポラロイズと出会います。特にQLTONEは同い年という事もあり、親近感と憧れを持ちました。
働き始めて一年後、花澤里都夢(はなざわりずむ)と出会いアコースティックデュオを2人で始めました。それがビタミンK with リズムというユニット名で、ある意味伝説の素人です。
ド初心者の花澤さんと素人に毛が1本生えてる俺。前途多難ながらも練習して曲作ってライブをして千葉駅で路上ライブしてお金もらってそれでご飯食べて、、青春時代でした。
その最中、ソロシンガーのYuta(久保雄大)を捕まえて自身のバンドを始めました。俺はギターボーカルの過去を捨ててベースとしてリスタートしたんです。結構な決断でしたが、きっと大丈夫、という自信が何故かありました。
リードギターに金澤周平、ドラムに山崎友輔を入れてバンド「OAs」(のちにキツネノ牡丹)を始めました。最初は本当に方向性が分からないバンドで、特にドラムのザキヤマ君がよくスタジオに遅刻するような感じでした。1回目のライブは楽しくて、2回目のライブは悔しくて、バンド活動の苦悩を学んだ覚えがあります。
3回目のライブでザキヤマ君が脱退。4回目で向後佳苗ちゃんがドラムに加入。そしてバンドのキャラが大まかに出来た気がしました。
俺は、正直自分のキャラに合ってないバンドをやってるんじゃないだろうか。そんな悩みがありつつも、がむしゃらに歌モノのバンドを励みました。
その間に花澤さんはソロ活動を開始し、ビタミンK with リズムは休止。お互い好きに活動をし始めましたが花澤さんは失踪しました笑 戻ってきましたが笑
キツネノ牡丹を始めて一年後、ギターのしゅうちゃんが脱退。スリーピースとなって曲を一新。
そこからキツネノ牡丹は進化したような気がします。
Sound Stream sakura以外でもライブをやったり、BOYS END SWING GIRLやicelandblueと3マンをしたり、forth nare!やCAN the TAMAN、夕凪に沈むといった友達バンドが出来たり、バンドとしてちゃんと活動している感覚でした。
そんな中ボーカルの雄大が持病悪化し、バンドは活動休止となるのです。いやーアレはショックだったなあ。俺のバンド人生が終わったと感じた瞬間でした。
ですが、すぐさまforth nare!からベースの誘いがかかりました。forth nare!はパワーポップのジャンルからパンク・メロコアに変わっていた段階だったので自分にとって向いていると感じました。ボーカルの大川くんから誘いを受けて、すぐにOKの返事をしました。
キツネノ牡丹活動休止のライブの翌日、forth nare!に加入が決まりました。
そこからはメロコアというジャンルを掘り下げつつ、今風のテイストを取り入れた曲でライブ活動をしていくのですが、自分の中で「コレ向いてる!俺に向いてるね!」と感動してました。楽しくてしょうがなくて佐倉以外にも横浜、熊谷、下北沢でライブして活動の幅を増やしていきました。ベースを新しくmoonのベースに変えて、ベースという楽器を改めて好きになり、バンドが認められていくと友達もどんどん増えていきました。楽しくてしょうがない時期でした。
加入から一年後、バンドはEmyFeelin'Goodに改名。ミニアルバムを発売し売れ行きもそこそこ良い。だが、バンドって続ける事が1番難しいんです。またその話は今後別で書きますが、、EmyFeelin'Goodは続きませんでした。
俺はEmyFeelin'Goodが解散してから心を閉ざしました。とか言うと色々波紋を呼びますが、いや実際そうなんですよねー。バンドをしてない自分に違和感を覚えて、酒に溺れました。俺のバンド人生が終わったと感じました(2回目)。
だがしかし!すぐにサポートの依頼はありました。新宿を活動の拠点とした元気堂と、Mama crown Yenが誘ってくれました。花澤さん達と新しく始めた東京ゴリラもありました。どうやらステージに立てとみんなが言ってくれるような感覚がありました。
そこからプライベートで付き合っていた女性と結婚を決意して、就職もして、元気堂でちょいちょいライブをしつつ、まぁ色々ありましたが、なんと憧れのQLTONEに誘われたのです。これも今後色々書きますが、単純に「俺ってライブをして生きる人なんだ」と自覚しました。
結局、サポートしてた元気堂を自ら辞めてQLTONEと、前々から声がかかってたクロトミクトガネに専念するのですが、プライベートの結婚生活はすぐに相手のいざこざから離婚となり、俺は精神不安定になります(爆
音楽をしている時は心が救われている感覚がありました。この音楽を誰かが待ってくれている、、とは思えるような自信はなかったけどQLTONE2人とKMG2人の為に頑張って練習してました。
そしてQLTONEでのサポート初ライブ。「ステージに戻ってきたんや…」という感動が押し寄せてちょっと泣きそうになりました。
そこから1年はたまーにMama crown Yenを手伝ったり、灯人のサポートしたりと幅が増えてQLTONEやKMGに還元出来ることが増えました。
音楽ばっかりなんですが
音楽で喜怒哀楽をして過ごしてます
きっとそういう人生なんだろうと思います。
全ての選択で音楽を選んだからとも思いますが、今が1番楽しい。
色々あったけど最高です。これからもよろしくみなさん。